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沿革

年号 西暦 日付 沿革
明治34年 1901年 6月6日 西洋画の社会普及と研究のため、京都の田村宗立、桜井忠剛、伊藤快彦、
及び大阪の牧野克次、松本硯生、山本忠仙、松原三五郎らが発起人となって
京都倶楽部に於いて関西美術会の発表式を行う。
9月24日 関西美術会、第1回競技会を開く。以後、しばしば開催。
11月1日 関西美術会及び京都彫技会、秋季連合展を開く。これが関西美術会の第1回展と
なり、以後大正8年の17回展ぐらいまでは、ほとんど連年展覧会を開催。
明治35年 1902年 9月10日 京都高等工芸学校入学式を挙行。
9月13日 浅井忠が京都高等工芸学校教授に任命され、教頭となって校長の中沢岩太を助ける。
9月20日 田村宗立、桜井忠剛、伊藤快彦ら親睦のために二十日会を創立するが、
これにやがて浅井忠が加わることで、関西美術院の創立につらなる。
明治36年 1903年 6月2日 浅井忠、聖護院洋画研究所を聖護院36番地の自宅内に設立し、この日開所式
を行う。これによって伊藤快彦、桜井忠剛、牧野克次の各家塾は
合併することになる。
明治37年 1904年 3月 鹿子木孟郎、フランスから河井新蔵と共に帰国し、鹿子木室町画塾を始める。
9月 鹿子木孟郎、浅井忠の推薦で京都高等工芸学校の講師となると共に
聖護院洋画研究所の指導にも当たる。
明治38年 1905年 10月22日 関西美術会総会に於いて、浅井忠宅を事務所とし関西美術院を創立する事に改定。
発起人は伊藤快彦、都島英喜、小笠原豊涯、萩原一羊、鹿子木孟郎、田村宗立、
牧野克次、浅井忠、桜井忠剛であった。
明治39年 1906年 3月2日 岡崎町広泉上ルに於いて関西美術院の開院式を行う。院長は浅井忠、
顧問:中沢岩太、教授:伊藤快彦、都島英喜、鹿子木孟郎(留学中)であった。
4月 関西美術院、院内競技会を開催する。以後しばしば競技会を開催。
明治40年 1907年 7月9日 関西美術院、研究生を中心として毎月10日に催す十日会を夜に開催する。この会は
先生方の会であった二十日会に対応するもので、座談の場、講演なども開いた。
12月16日 浅井忠没。
12月17日 中沢岩太、浅井忠の死去により関西美術院長に就任する。
明治41年 1908年 1月 鹿子木孟郎帰国。
6月15日 関西美術院長中沢岩太退任、かわって鹿子木孟郎が院長に就任する。
9月 寺松国太郎、関西美術院の教授を嘱託される。
明治43年 1910年 6月 河井新蔵、関西美術院の教授を嘱託される。
12月 関西美術院、裸体モデルを雇ってデッサンを開始。また福井利吉郎に美術史、
医科大学生保々輝雄に解剖学、藤茂木に透視画法の各臨時講座を嘱託する。
大正2年 1913年 9月 沢部清五郎、関西美術院の教授に嘱託される。(都島秀樹と共に昭和まで続く)
大正4年 1915年 4月 鹿子木孟郎、関西美術院拡張について単独で日本画部の設立を発表するが、
これに端を発して顧問中沢岩太と意見を異にするようになる。
5月29日 鹿子木孟郎、伊藤快彦、寺松国太郎、都鳥英喜、沢部清五郎ら、関西美術院の
経営について討議する。
6月 鹿子木孟郎、関西美術院長を辞職。当分は院長を置かず、院則も大改定された。
また、安井曾太郎がしばしば教鞭をとることになる。
大正5年 1916年 5月 安井曾太郎、京都を去って東京に定住する。この年から伊藤快彦院長就任。
9月1日 浅井忠門下の洋画家有志、加藤源之助、田中善之助、黒田重太郎、国松桂渓、
新井謹也、沢部清五郎ら、同人会を設立し10月第1回展を開く。
大正8年春の第3回展まで続く。
大正8年 1919年   黒田重太郎、第6回二科展に滞欧作を発表して二科賞を受ける一方、
京都高等工芸学校講師になると共に関西美術院に於いて教鞭をとる。
大正10年 1921年   この年、関西美術会改組の議起こり委員制度に改められ、
京都高等工芸学校教授になった霜鳥之彦が運営に寄与するようになる。
大正11年 1922年 4月30日~5月7日 改組第1回関西美術会展が府立図書館に於いて開催される。これは昭和5年の
第8回展までは連年開かれており、京都市展に発展的に解消したと考えられる。
  田中善之助、この年より数年間、関西美術院で教鞭をとる。
昭和2年 1927年 9月2日 関西美術院関係の同志であった伊庭伝治郎、岩崎重雄、伊谷賢蔵、綿義一郎、
竹内喜助、吉村勲ら集合し、白堊会の結成について協議する。
11月5日~7日 第1回白堊会が府立図書館にて開催される。
この会は昭和16年まで19回展を開催し、同19年頃解散した。
昭和5年 1930年   この頃、夜間部の研究生であった福井勇ら、黒曜会を作り2年程活動する。
昭和9年 1934年   黒田重太郎、この年より7年間に渡って関西美術院に於いて毎月絵画材料を
中心にした「石器時代より現代にいたる絵画史」を講ずる。
昭和10年 1935年   京都市展の発展に伴い関西美術会展は発展的に解消したものと考えられる。
昭和11年 1936年 2月 河井新蔵没。この年、ながらく関西美術院長の職にあった伊藤快彦が古希を
むかえ院長を退くことになったが後任は置かず、
黒田重太郎が院長代理の様な役を勤める。
昭和16年 1941年 3月 鹿子木孟郎没。
10月16日~20日 第19回白堊会展、大礼記念京都美術館にて開催される。(同展の最終)
昭和17年 1942年 6月 伊藤快彦没。
昭和18年 1943年 10月 戦火激しく、研究生は集まらないようになった。
11月 中沢岩太没。
12月 都島英喜没。寺松国太郎没。
昭和20年 1945年 3月 津田周平、関西美術院に移る。
  秋、大戦が終わり、研究生が再び集まるようになる。
昭和21年 1946年 1月 関西美術院の指導を再開することになり、黒田重太郎、川端弥之助、伊谷賢蔵、
綿義一郎、伊庭伝治郎が指導にあたるようになったが、
主に黒田重太郎が人体デッサンを、津田周平が石膏デッサンをみるようになった。
5月 加藤源之助没。
9月 田中善之助没。
昭和30年 1955年 12月 安井曾太郎没。
昭和37年 1962年 12月 須田国太郎没。
昭和39年 1964年 6月 綿義一郎没。
沢部清五郎没。
昭和40年 1965年   この頃から黒田重太郎が病がちになり、津田周平が人体デッサンを、
田中猛夫が石膏デッサンをみるようになる。
9月 水野一指導に就任。
昭和42年 1967年 1月 伊庭伝治郎、没。
この年より関西美術院の組織改正の議起こる。
昭和43年 1968年   春、関西美術院を理事組織に改めることになり、理事長に黒田重太郎、
副理事長に霜鳥之彦、理事には伊谷賢蔵、伊藤泰造、金田辰弘、川端弥之助、
柴田又太郎、下村泰一、竹内喜助、田中猛夫、津田周平、福井勇、藤井義晴、
吉村勲、西川純。
昭和45年 1970年 3月 伊谷賢蔵没。
6月24日 黒田重太郎死去に伴い、理事長に霜鳥之彦が就任する。
指導は津田周平、田中猛夫、上島悦三、三谷祐幸が当たるようになった。
昭和49年 1974年 3月 田中猛夫、没。
8月 西川純、没。
昭和51年 1976年 1月 関西美術院70周年を記念して「近代絵画の精華」展が京都新聞社主催により
京都高島屋で開かれる。
  第1回関西美術院生展。観画廊にて開催。以後毎年、府立文化芸術会館にて開催。
9月 田中勇次郎、水野一理事に就任。
昭和55年 1980年   田中勇次郎指導に就任。
昭和57年 1982年 8月 霜鳥之彦死去に伴い、福井勇が理事長に就任する。理事には津田周平、金田辰彦、
田中勇次郎、伊庭新太郎、水野一、三谷祐幸が運営、指導にあたる。
昭和63年 1988年 9月 福井勇死去に伴い、津田周平が理事長に就任する。
平成2年 1990年 5月 津田周平死去に伴い、田中勇次郎が理事長に就任する。
平成5年 1993年 10月 坂田芳孝が指導に就任する。
平成10年 1998年   理事に水野一、三谷祐幸、坂田芳孝、辻真砂、伊藤二三男が運営、指導にあたる。
9月 夜間石膏科を開設。
平成13年 2001年 4月 受験科を開設。
  田中勇次郎、水野一、坂田芳孝、指導を辞任する。
辻真砂による単独指導体制になる。
平成14年 2002年   三谷祐幸、辻真砂が運営、指導にあたる。中司満夫が指導に就任する。
平成15年 2003年   屋根の全面改修工事を行う。
11月 受験科を閉鎖。
平成17年 2005年 3月 辻真砂、中司満夫、指導を辞任する。
5月 矢倉弘資、指導に就任する。
7月 水野一、指導に就任する。
平成18年 2006年   矢倉弘資、指導を辞退。
8月26日~10月9日
10月17日~12月3日
創立百周年を記念して「浅井忠と関西美術院展」が開催される
(府中市美術館、京都市美術館)。
11月 浅井忠先生及び物故作家法要を京都南禅寺金地院にて執り行う。
平成20年 2008年 8月 床の全面改修工事を行う。
平成21年 2009年 9月9日 一般財団法人になる。
平成23年 2011年 4月 清家文博、指導に就任する。
平成24年 2012年 4月 阪脇郁子、本田昇、児玉健二、指導に就任する。

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